2018年10月6日、83年間の歴史に幕を閉じた築地市場の場内は、同月11日に豊洲市場で再スタートを切った。移転後も世界有数の取り扱い規模を誇ると言われ、特に水産物エリアのマグロは花形だ。そんな中、ここ数年で銀座の高級鮨店を始め、日本全国から注文が殺到し、いまもっとも勢いがあると言われてるのがマグロ専門仲卸「やま幸」。現在では、マグロだけでなく、高級鮮魚の専門店やレストランなど幅広い事業を展開している。なぜ、多くのレストラン関係者が「やま幸」で魚を買うのか。今回は、株式会社やま幸 代表取締役の山口幸隆氏にお話を伺い、創業時から人気急上昇中の現在に至るまでのエピソードや商売に対する考え方などを語っていただいた。
Pick up topics |
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1.一流の番頭だった父親の一言で、大学2年生からマグロ屋の仕事に没頭する |
2.“強いシャリ”のブームをきっかけに、自身が好む「美味しいマグロ」が花開く |
3.約100名の社員と共に改革を起こし、一丸となって「夢」を追い続ける |
【Topics】「やま幸」のマグロを使用する、ポケットコンシェルジュ掲載店舗 |
一流の番頭だった父親の一言で、大学2年生からマグロ屋の仕事に没頭する
―――会社の設立当初からお話を伺いたいのですが、創業はいつですか?
いまのスタイルで営業を開始したのは、35年前の1983年です。創業前は、うちの父親が約30年間「稲良」というマグロ屋で番頭をやっていて、私が大学2年生のときに、父親から「お前が店を引き継ぐなら独立しようと思う」と言われまして。父親が49歳の頃に独立して立ち上げたのが、いまの「やま幸」です。
ただ、創業の定義が難しくて、築地場内の店の創業というのは、独立するときにどこかの店を買い取って起業しないといけないんですね。その当時「やま幸」という店名で店舗を借りていたのですが、そこでは商売はしていませんでした。実際には場内の他店舗を買い取って合併という形でスタートしています。
―――大学2年生の頃には、マグロ屋になろうと思っていたのでしょうか?
正直な話、始めからマグロ屋になろうとは思っていませんでした。その頃は「何をやろうかなぁ」と思っていて、大学に行ったのも自分の進路が決まらなくてとりあえず通っていただけで、学校に行かずに航空貨物のアルバイトをやっていたことが多かったです。そのアルバイト先で「社員になって欲しい」とも言われていましたが、そこで正社員になるのも何か違うなと思っていました。
マグロ屋になろうと思っていなかったものの、もちろん小さなころから父親の背中をずっと見てきました。「毎朝真っ暗なときに起きて、大変な仕事だな」と思いながらも、父親の仕事に対してまったく興味がないわけではありませんでした。そして、私がそのように進路で迷っているタイミングで「お前が店を引き継ぐなら独立しようと思う」と言われたときに、どこか惹かれるものがあり「やま幸」で働くことになったんです。
なぜ惹かれたのか振り返ってみると、うちの父親は千葉の大原の三男坊で、18歳のときに丁稚で「稲良」に入ったんです。そこから這い上がって番頭になったことが、かっこよかったですし、実際にお金も稼いでいたので、自分も頑張れば父親のように稼げるようになれるかな、という憧れがあったんだと思います。
最初は父親から「大学に行きながらアルバイトをやって」と言われていました。私は、大学2年生までは築地に行ったこともなかったのですが、実際にアルバイトで働いてみるとマグロ屋の仕事が面白くなって、すぐ大学には行かなくなりました。
―――「やま幸」で働く中で、どのようなところに面白さを感じたのですか?
築地場内はいろんな店がひしめき合っていて、当時はいまよりもっと活気があって高揚感が得られる空間だったんです。そして自分の知らないことがたくさんあるので興味が湧きましたし、マグロの骨を取とったり解体したりなど、仕事を一つ一つ覚えていくことに、すごく面白さを感じていました。
当時は小さな店舗だったので、冷凍のマグロを並べるためにシャケ箱(※1)を設置する、取引先の店舗名を書いた紙を並べる、包丁を持ってくる、解体機を洗う、マグロをしまうといった感じの仕事でした。包丁を持つことなどは父親から反対されていましたが、とにかく早くいろんなことを覚えたかったので、その反対を押し切って仕事を覚えていました。
※1:鮭を入れるための木箱。当時はこの木箱を再利用して冷凍のマグロを並べていた。
セリのやり方も早く覚えたかったので、積極的にセリ場入って、父親の真似をしながらマグロの種類を覚えていました。父親は築地では有名な仲卸人で、冷凍マグロに関しては、昔から築地一番のものを買う人でした。マグロの目利きは素晴らしかったですね。父親がいたからマグロの目利きを早く覚えられたと思います。我々の業界では「マグロ屋で一人前になるには10年かかる」とよく言われますが、私は5年で一人前になろうと思っていました。
あと、22〜23歳のころに「やま幸」で働きながら、取引先だった西麻布の『葵鮨』にお願いして、無償で1年ぐらいアルバイトをしたこともあります。それは、自分が取り扱うマグロがどうやって鮨になるのかすごく興味があったからです。いまでもそうですが、うちのマグロで握った鮨を食べるお客様に、美味しく食べていただきたいという想いが強かったんです。
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仕事を一つ一つ覚えていくことに、すごく面白さを感じていました |
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“強いシャリ”のブームをきっかけに、自身が好む「美味しいマグロ」が花開く
―――独り立ちするために、心がけていたことはありますか?
マグロを買うためにはお客さんがいないとだめだと思い、マグロのマの字も知らない頃から、いろいろな人からお客さんの紹介を募ったり、営業したりしていました。
私が2代目としてやっていくなかで、他店舗の方々から「お前は親父を超えられない、お前の親父は昔こうだったんだ」と耳にタコができるぐらい聞いた覚えがあります。どちらかというと、父親の営業スタイルの逆をいっていました。父親が売らないものを一生懸命売ろうと。若い頃はある意味、父親が良き師匠でもありライバルでした。そのころは、基本的に冷凍のインドマグロや本マグロが主力で、生のマグロは漁獲量が多いときでないと買っていませんでした。比率としては、冷凍マグロ8割、生マグロ2割といった感じです。私は昔から生マグロをメインに扱いたいと思っていましたので、現在の「やま幸」では、生マグロ7〜8割、冷凍マグロ2〜3割で商売をしています。
―――マグロに対して強い情熱を感じますが、その魅力に惹かれたきっかけは何でしょうか。
昔、春先に紀州の勝浦で獲れたもので、見た目がキレイですごく美味しそうだけど、味が私の好みではないマグロがありました。それをお客さんに卸したら「いいマグロだよ、素晴らしいね!」と喜んでいただけたのですが、食べてみたらあまり美味しくなくて。ただ、一方で当時はまだ付き合いが少なかった銀座の高級鮨店に、春先に佐渡の定置網で獲れたマグロを卸したら、22時ぐらいに電話があり「いますぐ来い!」と呼び出されたことがあって、駆けつけてみると、そこには真っ黒に変色していたマグロがありました。それを「食ってみろ!」と怒られながら食べてみたら、そのマグロがすごく美味しかったんです。定置網のマグロは、少し時間が経つと黒く変色しやすいのが特徴の一つですが、「いいマグロと美味しいマグロは違う」ことを体験したことで、マグロに夢中になっていったのを覚えています。それから、いろんな産地でマグロがどのようなエサを食べているのかなど、いろいろと興味が湧いてマグロの勉強をするようになりました。
―――「いいマグロと美味しいマグロ」は何が違うのですか?
私が美味しいと感じるマグロの特徴からお話すると、まずは「香り」です。特にマグロの赤身を食べたときに感じる、鼻から抜けるマグロ独特の香りの豊かさがあればあるほど美味しいです。これを別な表現で「味がある、味がない」などと言ったりもします。あとは、身の柔らかさや脂のバランスですね。脂が多すぎると香りが弱くなるので、美味しいマグロではなくなってきます。
香りを一番楽しめる季節は春ですね。私が一年を通して一番美味しいと思うのは春先に獲れるマグロで、赤身は赤身、中トロは中トロ、大トロは大トロの味がしっかりとするものです。その他の季節であれば、マグロのブロックの断面を見たときに、赤身、中トロ、大トロの境目が少ないグラデーション状なものが好きです。もちろん、脂のバランスは重要です。美味しいマグロは、重量でみると150kg以下の小さめのマグロが多く、特に定置網で獲れたものが私の好みです。脂がのってくる時期は香りが弱くなりますが、冬は脂を楽しむとき、春は香りを楽しむときだと思います。四季を通じてそういうものを楽しむのが日本の食文化ですね。
それに対して「いいマグロ」とは、「見た目がいいマグロ」といった感じでしょうか。見た目が大きく立派、切り身の色も時間が経ってもキレイなままで脂ものっているようなものです。ただ、どのマグロを選ぶかはお店の提供スタイルによりますので、好みの問題ですね。
―――現在は冷凍マグロよりも生マグロがウエイトを占めているようですが、お父様の代からその比率を変えたのはなぜでしょうか?
時代の流れが生マグロを求めていると思ったからです。いまは冷凍のマグロは商社の扱い量が多くなってきて、商社の意向でセリ場から出荷する時代になってきました。昔はいろんな荷主さん(物流事業者)がいて、どんどん市場に出荷して買い卸していたものが、大手商社が買うようになると、セリ場の相場が安いということで、荷主さんがマグロを市場に出して来なくなる。これではつまらないと思いました。一方で、生マグロは大獲れしたら出すしかない。荷主さんも止めとくわけにはいかないんです。そこで、「これからは絶対に生マグロの時代だ」と思い、生マグロをメインに扱いたいと考えるようになりました。
ただ、いつもお客さんに来て欲しいと思って、他店より値の張るマグロを並べてはいましたが、私が40歳ぐらいまではお客さんが少なくて、「頑張ろう…」と思いながら、隅田川添いで涙を流したこともあります。お客さんが少しずつ増えてきたのは、42〜43歳ごろですね。
―――いまとなっては考えられないですね。現在「やま幸」は築地でNo.1のマグロ専門仲卸とも言われていますが、その転機が訪れたのはいつ頃からでしょうか?
7年前、私が49歳のころに父親から会社を引き継いだのですが、ちょうどそのころからです。いまは鮨屋さんとの取引が多いですが、昔の鮨屋さんは、砂糖が入った甘めのシャリ(※2)が多くて、つまみを食べてお酒を飲んで、鮨を5〜6貫食べて、お土産を持って帰るというイメージがあると思います。
それがここ10年ぐらいで、つまみよりも鮨がメインになり、砂糖を入れずに酢と塩がきいた”強いシャリ”がブームになってきました。そうなってくると、色が長持ちして味があまりないマグロが合わなくなってくる。冷凍のマグロはまず合わず、生マグロでも実際に解体してみて我々が厳選したものでないと合わないんです。それで、私は昔から味のあるマグロを好んで買っていたので、それが時代にあってきました。
※2 シャリ:鮨屋で使う専門用語(符牒)で、すし飯や酢飯のこと
―――ポケットコンシェルジュにご参画いただいている鮨屋の大将から、山口社長は取引先の鮨屋に実際に食べに行って、その店のシャリに合うマグロを卸されているとよくお伺いしますが、いまでもそのようにされているのですか?
そうですね。その店のシャリに合うものを卸さないと美味しい鮨にはなりませんので、できるだけ食べに行くようにしています。最近は強いシャリが流行っているものの、それが少し過剰になってきていると思うこともあります。ですので、食べに行った際には「旨いものは旨い、まずいものはまずい」とはっきり言うようにしています。
シャリに関しては、ずっと前からいろいろな鮨屋の大将に言っていますが、はるちゃん(『青空』高橋青空氏)が、店をオープンしたときにすごいなと思ったのが、まだまだお客さんを入れていないときに、たしかシャリを3回炊いていました。つまり、何時に来店した人でも同じ鮨が味わえる。それは完成度が高いですよね。新井君(『鮨あらい』新井祐一氏)なんかも、いまでは4〜5回炊いているんじゃないかな。シャリに砂糖を入れるのなら話は別ですが、酢は揮発性があるので、酢と塩だけのシャリはごまかしがきかない。だから、取引先の鮨屋さんに食べに行くときは、シャリはまめに炊いた方がいいと伝えたりもしています。それをもったいないからといって使っていても、お客さんが来てくれなかったら意味がないんです。
あと、お店が気に入っているマグロがあるならば、そのレベルに到達しなければ絶対に売りません。それが取引をする条件ですね。状態が悪かったら交換するから持って来て欲しいと伝えています。お店には、お客さんが楽しみにくるわけですから。ポケットコンシェルジュさんもそうだと思いますが、食べに行く人は期待を持って予約しますよね。私も食べることが好きなので、そんな期待を裏切ったら申し訳ない。お客さんを後悔させたら今日という日は取り戻せない。だから、状態が悪くなったら交換。それがお店との信頼に繋がっていると思います。
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「いいマグロと美味しいマグロは違う」ことを体験したことで マグロに夢中になっていったのを覚えています |
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約100名の社員と共に改革を起こし、一丸となって「夢」を追い続ける
―――山口社長が商売をする上での信念は何ですか?
美味しいマグロを信じて売る。食べ物なので見た目は大事ですが、絶対に美味しいものでないとダメ。マグロの色が変わりやすかったら、手をかけてうまく保存すれば美味しい状態でお客さんに提供できるというのが自分の中にあるので、その方法もお店に伝えながら一生懸命に自分が信じたマグロを扱ってきました。うちの従業員にも良く言いますが、私の座右の銘で「夢あるところに行動ある」という言葉があります。マグロ屋として一人前になるという夢に向かって一生懸命やってきたから、いま結果がでているのではないかと思います。
―――ありがとうございます。最後に、築地場内は豊洲に移転しますが、今後の展望をお聞かせ願いますでしょうか。
現在、当社ではマグロを専門に扱う「やま幸」以外にも、鮮魚全般を取り扱う「大豊(だいとよ)」、高級鮮魚専門店の「希海(のぞみ)」、生・冷凍メカジキ、マグロ専門店の「幸宮(ゆきみや)」、魚介類加工を行なう「大田支社」、小売店の「幸弥(ゆきや)」、築地場外の小売店「黒銀(くろぎん)」の他、海外事業部や『HIBACHI・乃南(のなみ)』などのレストラン事業を展開していて、個人的には『鮨 とかみ』『尾崎幸隆』の運営にも携わっています。
そして、私自身はいま56歳(2018年9月現在)ですが、60歳で引退するというゴールを決めています。これは、社員に夢を与えたいからです。現在展開している事業部は独立採算性という形で、経営がうまくいくなら将来的には分社して社長を増やしていきたいんです。築地で勤めて社長になるなんて、なかなかないと思います。もちろん、魚好きのいい人間にしか継がせません。レストラン事業でも、一緒に夢を追える人間を集めています。
あと、常にやらなければいけないことは改革。うちの会議でも良く言うのですが、私の発言の中に「昔はこうだった」という部分は一つもありません。「過去は反省と思い出しかない」と、従業員には良く伝えていて、常に突き進まなければいけないと思っています。改革というのはいつでもやらなければいけないし、いつでも改革をすると思って仕事をしないと、すぐにできるわけじゃない。父親から継いだときは17名ぐらいの会社が、いまは100名ほどいるのですが、こうなってくると改革をすることがだんだん難しくなってくる。でも、止まってしまうと廃れていくのが商売だと思っています。いまでも「5年先、10年先はどうなっているんだろう」と考えながら、自分が信じた道を探り、そこに向かっていく。私がやってきたことはそういうことだと思います。
豊洲に移転したあとの未来はまだ漠然としていますが、まずは豊洲の良さをみたいと思います。豊洲の利点をお客様にどう提案できるか。そこに焦りはありません。これからも、社員一丸となって夢を追いかけていきたいと思います。
【構成・取材・執筆】白石直久
【撮影】キミヒロ