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【すし 㐂邑】独学で“熟成”の技術を追究し、鮨の概念を覆す、唯一無二の鮨職人 〜前編〜

【すし 㐂邑】独学で“熟成”の技術を追究し、鮨の概念を覆す、唯一無二の鮨職人 〜前編〜
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「日本の食文化を世界に発信していく」。そんなポケットコンシェルジュのビジョンから始まったインタビュー特集です。日本で活躍する一流レストランのシェフを取材し、レストランに対する思いや、料理人としての考え方などを紹介していきます。

第14回

『すし 㐂邑』木村康司

研究を重ねて培った熟成の技術で仕込んだタネに、調味料にも徹底的にこだわった酢飯を合わせ、独自の“鮨道”を歩む『すし 㐂邑』。店主・木村康司氏が織りなす、一切妥協のない握りとつまみを目当てに、全国から鮨通が訪れる超予約困難店だ。今回は、ミシュランの二つ星に甘んじることなく、常に進化し続ける木村氏に、鮨へのこだわりや、職人としての生き方を語っていただいた。

Pick up topics
1.料理人としての基礎を築いた、天ぷら店での半年間の修業
2.腐敗のメカニズムから逆算して作り込む、至極の熟成鮨
3.有名酒造からヒントを得て着手した、前代未聞の酢飯づくり

㐂邑_ 大将(2)

料理人としての基礎を築いた、天ぷら店での半年間の修業

―――木村さんは、なぜ鮨職人の道に進まれたのでしょうか?

私の実家は東京の武蔵小山で、祖父の代から鮨屋を営んでいたのですが、幼い頃から父がとても楽しそうに仕事をしている姿を見ていました。私自身も常連さんに可愛がってもらっていましたので、「こんないい商売はないなあ」とそのころから思っていて、何の迷いもなく鮨職人の道に進みました。

小さい頃から、料理は大好きでしたね。小学校2年生くらいで自分用の出刃包丁を買ってもらいました。当時の自分には大きい包丁でしたが、父から「出刃包丁は、押しただけでは切れないから怖くない」と教わりながら、店にもちょこちょこ行って、お手伝いをしていました。

食べるものに関しても、うちはお金持ちではありませんでしたが、両親がいろいろな所に食事に連れて行ってくれたので、それが料理の勉強になっていましたね。誕生日はホテルのフレンチなどに一張羅を着て食べに行って、「鴨にオレンジのソースを合わせるんだ」と新しい発見があったり。味覚が鈍らないように、辛いものは食べ過ぎちゃいけないとも教わっていました。

――― 修業時代から独立までの経緯をお聞かせください。

若いうちから実家の鮨屋に入るのは、視野も交友関係も狭くなるのでよくないという父の考えがあり、小・中・高と学校に通いながら鮨の勉強もしていました。高校卒業後は、実家の手伝いをしながら、少し自由な時間をもらっては九州や北海道まで行って、現地の鮨を食べていました。そうしているうちに、やはり鮨屋で働きたいという想いが強くなり、だんだんと鮨職人としての生活がメインになっていったんです。そして、20歳のころから、祖父の一番弟子が独立した店で4年ほど修業し、そのあと叔父の店でさらに8年ほど働きました。

私が学んできた祖父の鮨は、生粋の江戸前鮨です。魚は甘酢に漬けるか、昆布で〆るか、ヅケにするか、酸味が強かったら中にオボロを入れるか。鮨の文化を遡ると、ほとんどが保存食として食べられていたので、「鮨とはそういうものだ」という考えでした。それはそれで好きでしたが、ただ、その技術を教わりながらも全国の鮨屋を食べ歩くうちに、「これだけが鮨じゃないな」と思うようになったんです。そこで、すべて古典的な江戸前鮨だけでなく、生物(ナマモノ)もバランスよく取り入れる鮨屋を自分でやりたいと考えるようになりました。

あと、独立したのは33歳のときですが、その前の半年間は、神奈川の宮崎台にある『美かさ』という天ぷら屋で働かせてもらいました。そこで、料理人としての基本から教わった感じでしたね。

―――なぜ、天ぷら屋で修業されたのですか?

本当にたまたまなのですが、『美かさ』の外観が素敵だったので飛び込みで入って、カウンターに座って食事をしていると、店主の土肥さんが当時働いていた鮨屋の常連さんだったんです。そこでは軽くお話ししただけだったのですが、次の日に、築地でもばったり会ったんですね。

私は、実家の鮨屋で働いていたときは仕入れは担当していなかったのですが、将来のために毎日築地に行って、ノートにメモを取りながら魚の勉強をしていました。それで、築地で土肥さんに会った日から、『美かさ』の仕入先をすべて紹介していただいて、業者さんに対して「彼は、将来鮨屋をやるからよろしく」と言っていただいたんです。それから、魚の仕入れ以外にも、いろいろと教えてもらえるようになりました。月日が立っていざ独立するとなった時、天ぷらの技術というよりも、仕入れと料理人としての基礎を勉強したいとお願いして、働かせていただきました。

―――『美かさ』で学んだことで、印象に残っていることはありますか?

お客様に出すものは、一つでも手抜きせずきっちりと作るということです。妥協せず、つねに全力でベストのものを出す、という教えは、いまでもすごく生きていると思います。あとは、素材のおいしさを引き出す技術が素晴らしいです。いまだに白魚の握りは出したことがないのですが、それは『美かさ』よりもおいしい白魚が出せないからです。これには目利きも重要ですが、天ぷらで火を入れた素材の旨さというのは、握りでは太刀打ちできない領域があるんです。白魚は、オープンから12年ぐらい経って、ようやくつまみとして完成したものはあるのですが、握りはまだまだですね。

㐂邑_ 大将(3)

将来のために毎日築地に行って、ノートにメモを取りながら魚の勉強をしていました

腐敗のメカニズムから逆算して作り込む、至極の熟成鮨

―――『すし 㐂邑』の出店は、なぜ二子玉川という場所を選ばれたのですか?

最初は、都心のいろいろな場所を紹介してもらいました。先輩に「六本木がいいよ」と言われて現場を見に行ってみると、ほとんど同伴や接待のお客様で、全然お鮨を食べていない。「これの何がいいんだろう?」と思っていたら、お会計にブラックカードを使う方が多いからだと。それは、自分が求めてるものと違っていて、お金ではなくて、自分が培ってきた技術に満足してもらえるほうが性に合っていると感じ、繁華街はやめて、接待や同伴がない場所にしようと思いました。

そういう点で、二子玉川は人も集まるし住宅街もあるので、鮨が受け入れられない場所ではないなと。あとは、人通りの多い駅近に出店すると営業中に次々と扉を開く方がいる可能性があります。そうすると、食事を楽しんでいるお客様の集中が途切れてしまいますよね。ですから、飛び込みのお客様が少ない、駅から徒歩10分弱のところで探しました。自分がやりたい鮨が明確だったので、どこに出してもやっていけるという、若さゆえの自信もあったんです。

―――開業してしばらくは、大変な時期もあったと聞いています。

開業当初は、自分に腕があるから売れると思っていたんですね。ニューオープンで出版社にも声をかけてもらいましたが、自分の力で売りたいと思い全部断っていました。そうすると、当時はまだインターネットもそこまで浸透していなかったので、誰にも知られていないわけです。しかも、最初から入れ替え制と決めていたので、空いてる時間に来られても「予約で埋まっているんです」などと言って断り続けていたので、近所の評判は悪くなる一方で…。3年目くらいまでは本当に暇で、毎日が地獄のようでした。わざわざ来てもらう個性がない鮨、自分には何の武器もないんだと、ガラガラの店内を見てようやく気づいたんです。

―――そこから、どのように改善していったのですか?

まず最初に変えたのはお酢ですね。暇な時にお客様に、お酢は何を使っているかと聞かれ、「東京の江戸前鮨ですから、横井醸造とミツカンですよ」と答えると、「お酢がどうやって作られているか知ってる?」と言われて。それまではお酢の成分すら見たことなかったのですが、「京都に面白いお酢屋さんがあるから行ってみたら?」と勧められて見に行ったのが、いま使っている飯尾醸造の「富士酢」です。そこで作るお酢は、米をつくって、お酒を造って、その純米酒と酢酸菌と水を合わせて3年寝かせていて、「こんなに丁寧に造るんだ!」と衝撃を受けました。料理界でおそらく最もお酢を使う仕事の鮨屋が、こういうお酢屋さんを誰も知らないんじゃないかとも思い、帰りがけに「明日から使います」と言って帰ってきました。

そこから、その他の調味料に関しても何も知らないことに気づくんです。塩も、誰がどうやってつくっているかも知らず、塩田なのか海水なのかも理解していなかった。フレンチやイタリアンでは当然のようにフランスやイタリアの塩を使っていて、塩化ナトリウムは使わないのに、鮨屋は魚については意識しているけど、調味料を知らないのは恥ずかしいなと。そこから塩について勉強するようになり、醬油や海苔なども、いまはきちんとした職人さんから仕入れています。

㐂邑_ 鮨酢

『すし 㐂邑』で使用する、飯尾醸造の「富士酢」と、ミツル醤油醸造元の「生成り、(濃口)」。その他、魚の仕込みやすし酢に使う塩は、フランス・ノワールムティエ島の海水からつくった天然塩。辛味が尖らない、マイルドな味わいが特徴

〈後編に続く〉